新しい住宅がどんどん増え、平岡の地から畑が、緑が失われていき、昔の平岡は今いずこ・・・

鎌倉会長   坂東夫佐子さん

 今回は、我が心のふるさと「平岡の大地」と題し、連合町内会 顧問 坂東夫佐子さん(平岡在住88年)に小学生の頃の平岡の思い出を語っていただきました。
  (聞き手 平岡町連 鎌倉功会長)

<鎌倉>平岡には何時頃からお住まいですか?
<坂東>祖父母が和歌山県から日高の帳場として来道し、大正12年から祖父母・父母が大地主さんから平岡の地を借用し、一面の笹野原・雑木林を開墾したのが始まりです。その後昭和4年私が生まれ、妹2人と祖父母・父母の合計7人で畑・リンゴづくりの毎日でした。
<鎌倉>小学校は平岡にあったのですか?当時の子供の服装・食べ物・学校の状況は?
<坂東>厚別尋常小学校(現清田小学校)があり、尋常小学校六年・高等科二年で、小学校が3教室(先生3人・1教室に2学年同室・合計100人位)、高等科が1教室(先生1人・2学年同室・合計30人位)で、全校130人位でした。
 服装は、ほとんどの農家で綿羊を飼育しており、冬季は、手編みのセーター、ゴム長靴のほか、つまごというワラで編んだ長靴も一部の人は使用していました。靴はゴム靴で、夏は裸足で靴をはき、冬は、毛糸の手編みの靴下でした。学校の教室は、石炭ストーブが教室の真ん中にあり、そんなに寒くなかったと思います。トイレはもちろん水洗トイレ等ありませんから、汲み取り式で、お尻が寒かったのを覚えています。
 食べ物は、今とは全然ちがい、米等も味は劣りますし、季節以外の物(苺は初夏、リンゴは秋)は無く、バナナ等は当然ありません。でも、昔の人は知恵を出し、アシリベツ川に上る沢山のサケを捕え、塩づけして土中深く埋め、冬に食べたり、春は銭函まで馬車で行き、ニシンを沢山仕入れてミガキニシンにしたり、ヌカ漬けにして長期保存をしたのです。
 また、電気もなくランプでしたので子供が新聞紙でランプのホヤ(炎を覆うガラス)を掃除したのです。電気は昭和19年に通電されましたが、電柱は平岡の人達が白旗山に行って手頃な木を切り、北電に電線を引いてもらいようやく約20戸の平岡の農家に電気が点灯したのです。
<鎌倉>平岡地区にクマはいたのですか?
<坂東>当時は、シカ・キツネ・タヌキ等は珍しくありませんでしたが、熊は有明地区は出たようですが、平岡では見ませんでした。
<鎌倉>子供達の遊びや、お祭りの状況は?
<坂東>遊びは、夏はアシリベツ川の水遊び、冬は寒いので自宅でアヤ取りした事を覚えています。お祭りは、アシリベツ神社・三里塚神社・公有地神社(現有明神社)で楽しく行われており、その当時から9月12日の本祭りは変わっていないのですよ。
<鎌倉>坂東様、貴重なお話、大変ありがとうございます。

(写真は、坂東様所有の昔の平岡の生活風景等の写真です)

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